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長岡市在住の瞽女研究者、長岡市立科学博物館館長の鈴木昭英さんの論文。

瞽女の旅路 第三部/小説と論文 data


小国のごぜさ

鈴木 昭英

小国郷は、盲目の唄芸人ごぜが旅商売をするのに都合のよい土地であった。渋海川の中流域に開けた南北に長い盆地、その西山と東山の山麓段丘上に点々と集落がつらなること、人びとは淳朴で情けが厚いこと、常にはこれといって格別の娯楽がないことなどが、ごぜの歴訪を盛んにする要因となった。その多くは長岡系ごぜであったが、刈羽ごぜや三条ごぜも入りこんだ。
ところで、小国には他所から大勢のごぜが陸続とやってきたが、地元にもごぜが幾多輩出している。私の調査でその名が出たのは七名に及ぶが、今はその存在さえ忘れられようとしている。この機会に概略をまとめ、小国ごぜの近代における軌跡の一斑を記録にとどめることとしたい。

○昔、桐沢の野田「作左エ門」におイセというごぜの親方が出た。器量がよく、目が少し見えたので「座敷ごぜ」として身を立て、宴席などに呼ばれて芸を披露したが、弟子を持ち、それらを連れて旅に出る「門づけごぜ」の稼業も行った。
弟子の一人は同じ村の自分の家の前の野田「庄左エ門」のトリであり、もう一人は太郎丸の長谷川「源太夫」のリヤであった。トリは嘉永四、五年に出生し、娘時代は村一の旦那様青柳家に女中奉公したが、数え十九歳のときソコヒをわずらい、しばらくしておイセの弟子になった。リヤはトリとほぼ同年輩であったが、何歳で師匠についたかはわからない。
年季が終って生家で年明けの大盤ぶるまいをした。式がすむと、歯を黒く染め、「姉さ」になった。目は少し見えた。
この師弟三人は長年一緒に旅をし、弟子たちは師匠を「お師匠さま」と敬い、トリは「おっかあ」と呼ばれ、リヤは「姉さ」と呼ばれた。大正時代には師匠はかなりの年寄りで、旅の最中、朝方その日の宿につくと、弟子の二人は背中の荷物を下ろして村内の門づけに出かけたが、師匠はそのまま宿にいて休むことが多かったという。
師匠は大正の末か昭年の初めに亡くなったが、弟子の二人はその後も旅を続けた。そして最後は、別々に自分の村だけをそれぞれ一人で門づけした。リヤはその晩年、正月二日の歌い始めに、炉ばたでアキの方を向かい、大津絵や松坂などをうたっていた。リヤは昭和四年に数え八十歳近くで、トリは昭和七、八年に八十二、三歳で没した。
この組は、親方が桐沢におったから「桐沢組」と言ってよいであろう。おそらく長岡系のごぜであったと思われるが、今のところその確証をつかんでいない。

〇法坂の樋口「伝兵衛」の家にごぜが出た。名前はチヨといったらしい。若い盛りのころのことを知る人はもういない。だれの弟子で、どんな仲間がいたか、わからない。
大正の初め、兄は農家をやめて長岡に引っ越した。ところが、チヨは法坂にとどまり、小金を持っていたので鎮守諏訪神社の大門のところに小さな家を作り、一人で住んでいた。お歯黒を染めていた。器量がよく、勘のはたらく人で、歌も上手、人気があった。村内で何かあると呼ばって歌わせた。親類の樋口「萬兵衛」の家に来て「門づけに出るすけ、日本髪を結ってくれ」と頼むことも度々であった。几帳面の人であったという。昭和になって、七十幾歳で死亡したが、死ぬ間際に火事を出して、かわいそうであった。

○山野田の、通称「上隣」と言われた牧野家に、タケというごぜが出た。文久二年の生まれで、幼いとき目を悪くし、ごぜに弟子入りした。その親方は、長岡ごぜの東頸城の師匠だという人もあるが、はっきりしたことはわからない。
盛りのころのことをよく知る人はもういないが、大正時代には上条村野田(現、柏崎市野田)のごぜおツガと組んで、二人で旅商売をしていた。この二人はほぼ同年輩で、タケは両目がほとんど見えなかったが、ツガが若干見え、先に立って歩いた。旅商売は春と秋であった。刈羽郡を広く廻り、特に鯖石谷や上条方面が中心となった。柏崎に行くこともあった。小国にはあまり出なかった。お盆と正月には山野田へ帰ったが、二週間か三週間くらいでまた旅に出た。タケの若いころは、上州にも行ったらしい。年を取ってからはずっと家にいたが、タケは昭和十九年に八十三歳で亡くなった。

〇鷺之島の長谷川「八造」の家に、キクイというごぜが出た。明治四十一年に生まれ、幼少のとき失明し、七歳のころ不動沢(現、三島郡越路町不動沢)の親方おツヤごぜの弟子になったが、二十歳のころその親方が亡くなり、小千谷在片貝町のごぜ黒崎マキの弟子になった。ツヤとマキは片貝町の大親方浅田チエの弟子で、姉妹弟子の関係にあった。チエはたくさんの弟子を持ち、長岡ごぜの「片貝組」を作った人である。
黒崎マキには、キクイのあと、小千谷在の三仏生と妻有の袋(現、十日町市袋)から二人の弟子が入り、師匠とも四人で旅稼業に出た。弟子はみな盲目であったが、師匠は両眼が少し見えて手引きをした。県内は春と秋の二回、小千谷近在から小国郷、中魚沼、南魚沼を廻り、県外は冬季に上州を巡業し。このグループの旅廻りは昭和十二年で終っている。師匠は昭和十三年に六十一歳、キクイは同四十四年六月に六十二歳で亡くなっている。

○諏訪井の田中「源太夫」家のキサさんがかってこぜをやった人がある。いまだ健在で、数年前下越黒川村の胎内やすらぎの家へ入所された。小国郷ごぜただ一人の生存者のようだ。
キサさんは明治四十四年に生まれ、三つのとき痛目になり失明、四歳のとき三島郡脇野町在の上岩井(現、三島郡三島町上岩井)のこぜ安立セイ親方に弟子入りし、八歳で芸を習いはじめた。師匠から実家に来てもらって、教えてもらった。芸名をテイという。
師匠には、これ以前すでに何人かの弟子がいた。東小千谷元中子の金子セキ(芸名タケ)、長野県下高井郡野沢温泉村平林の丸山キチ、三島郡脇野町(現、三島町脇野町)の渡辺キミ(芸名トワ)、同後谷(現、三島町後谷)のヒデである。キサさんが末の弟子となった。
キサさんは十歳のとき初めて旅に出た。三島、古志、刈羽から魚沼三郡、県外は群馬、栃木方面を巡ったが、県外の旅は彼女は、それほど回数が多くなかった。この組では、キチとキミが手引きを勤めた。長岡大工町ごぜ屋で春行われる妙音講に、この組は毎年出かけた。
キサさんは、昭和十三年に二十一年間の年季が明け、実家で師匠や姉妹弟子、親戚の人を招いて、年明きのふるまいをしてもらった。だが、間もなく家で子守りが必要となって、ごぜの商売をやめた。師匠のおセイは昭和十九年に八十五歳で他界、その後姉弟子たちも順次死亡し、生きているのはキサさんだけである。この師弟の仲間を「上岩井組」といい、長岡ごぜの一派をなした。

小国は長岡ごぜの出生圏であり、その縄張りの中に入っていた。これはすでに江戸時代に形成された伝統であった。したがって、現在確認不可能な野田イセの桐沢組や法坂の樋口チヨなども、長岡ごぜの系統であったと推測される。
小国ごぜによる巡業活動は、大東亜戦争前で終っている。かなりの高齢になっても旅を続けた人が少なくない。特筆すべきことであろう。

(すずきしょうえい・一九三二年生れ、長岡市立博物館長)


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