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「北方文学」同人で小説集『雪残る村』『紙の匂い』等の著者、高橋実の小説。

瞽女の旅路 第三部/小説と論文 data


瞽女の墓

高橋 実

おタツ瞽女さの墓は、野地の部落から沢口の峠へ向かう村はずれの道のすぐ上にあった。「鎌を持ってくればよかった」
といいながら、案内のヒロ婆さんは、膝まで達する夏草を、先に立って足で押し分け、ふみつけて進んだ。ヒロ婆さんは、おタツ瞽女さの甥久蔵の嫁の実家にあたる。
ヒロ婆さんは、携えてきた花菖蒲を、ジュースの空ビンに挿し、ロウソクと線香に火をつけた。お盆までには、まだ間がある。どの墓も、これからお盆前の清掃が始まるところであった。わたしも、並んで手をあわせた。お詣りのおわったあと、墓の脇にまわってみると、「昭和九年、久蔵、叔母タツ建之」という文字が刻まれていた。この叔母タツが、わたしのおめあての野地出身の瞽女さである。
「名前は、二人書いてあるけど、みんな金はおタツさが出したんだそうですよ。」
「そのおタツさは、この墓にはいっているわけですね。」
「そうです。おタツ瞽女さと、久蔵、そして去年死んだ、久蔵の子供の雄太郎の三人の骨がここに入っています。」
「おタツさの家は、どこにあったんですか。」
「家は、ここに来る途中、集会所があったでしょう。あの道を隔てた奥に今も立っています。今は戸閉めしてありますが、去年まで、雄太郎さんのつれあいおミチさんが、ひとりで住んでいました。今は、N市の老人ホームにはいっています。
子どもも大勢いるんですが、みんな遠くの方へいっているもんで、病気してから、こんなところへひとりで置かんないということになったみたいですよ。おミチさんは、まだしっかりしています。腰はまがっていても、おミチさんなら、あのおタツ瞽女さのことを知っているでしょう。雄太郎さんの弟さん、吉次郎さんというんですが、あの人もおタツさんのことを知っているでしょう。
「大へんありがとうございました。はたしておタツ瞽女さの話を、まとめられますかどうか、心配なんですが、とにかく聞きにいってくることにしますよ」
わたしは、お礼をいって、野地をあとにした。おタツ瞽女さが死んで、四十年もすぎている。何より、この瞽女さを知っている人は少ないだろうし、あったとしても断片的なものにしかすぎないだろう。はたして、小説なんかにまとめられるものかどうか、一沫の不安が脳裏をよぎった。
帰宅した夜、電話帳で調べた番号で、まずK市に住む吉次郎氏宅へ電話した。
「吉次郎さんでいらっしゃいますか。はじめて電話するものですが、〇〇といいます。実は、吉次郎さんの野地の実家に、昔、おタツさという瞽女さがおられましたことを、御存知ですか。」
「もちろん、知っていますが、それがどうかしたというのですか。」
「実は、そのおタツさを、小説にまとめたいと思いまして、御存知のことを教えてもらえたらと思いまして………」
「小説、小説にしてどうするんです。あなたは、いったいどういう人なんです。もう一度名前をいってみて下さい。そんな古いことを今さらほりおこして、どうしようというのですか、人を笑いものにする気なんですか。いいたくありませんね。小説だか、なんだか、それは、あなたの勝手でしょう。わざわざそんな古い人のことをあれこれ、ほじくり出して、いい迷惑ですよ。いいたくありませんね。」
「実は、小説にまとめて、……あの…野地に新しくできた芸術村のこと御存知ですか……」
「芸術村かなんだか、そんなもの、私には関係ないことじゃないですか。あなたがたが、かってにはしゃいでいるだけなんですから。こちらこそいい迷惑ですよ。もう電話切りますよ。」
「そうですか、大へん残念です。こちらの気持ちが理解いただけませんで、失礼いたしました。」
乱暴に電話を切られた音がわたしの耳元に響いた。そのあとしばらくは、胸の動悸がおさまらなかった。吉次郎氏とは、どんな人なのだろう。電話のむこうがわの不快感がこちらにまでびんびんとひびいて来るような感じであった。顔を見ないで話す電話は、もどかしい。じっくり、会った上での話なら、あきらめもつこう。電話せずに、訪ねてゆけば、誤解は、とけるのだろうか。いや、押売りのように、追い払われてしまうかも知れない。吉次郎氏は、自分の家から出たおタツ瞽女を恥としているのであろうか。かって、瞽女んぼとさげすませられた、瞽女を賤業と見ているのかも知れない。いろいろなことが思い浮かんできた。いずれにしろ、意気込んでいたわたしの瞽女の聞き書きは、最初から大きなつまづきに直面した。四十年前のおタツ瞽女は、はるか遠くにかすむような気がした。おタツ瞽女の小説づくりは、いっそ断念した方がよいのかも知れないと思う。身うちの人に、不快感を与えるばかりの小説づくりなどやめた方がよいとも思う。
それから二・三日して、こんどは、老人ホームにはいっているおミチさんに電話した。見知らぬわたしの電話に警戒されるのではないかとおびえつつ、取り次ぎの電話口から、ミチさんの声の聞こえるのを待った。初めての電話にしては、ミチさんの声は弾んでいた。これは、ありがたい、この人の話から、おタツさんの人間像が浮きあがってくるかも知れない、わたしは、すぐさま、車を、N市郊外の特別養護老人ホームに走らせた。
この老人ホームは、まだ出来て、一年半しかたっていない、鉄筋コンクリートの白い壁がまぶしかった。ミチさんは、玄関入口のロビーで、わたしの来訪を待っていてくれた。かなり腰はまがっていたが、目は輝いていた。特別養護老人ホームといえば、寝たきり老人や呆け老人のイメージが先行して、ひょっとしたら、ミチさんも昔の記憶を思い出せないのでは、という私の心配は、一度に吹きとんでしまった。
「おタツさは、昭和十九年に八十四で死にました。ちょうど、わらびの生えるころで、家にとってきたわらびを山のようにつんでいて、それの根元のところを取ったり、先をとったり、いつも、釜の中で煮るための下ごしらえをしていたんです。そのままぱたっと手がとまって、横になったんです。おらも、おらの亭主の雄太郎、雄太郎の親の久蔵も、おらの姑のトラも、みんないました。いいしまいでした。おらも、あんげな死に方してみていと思っていますども、こればっかりは、神さまがきめてくれなさるんでのう。
おタツさは、八十になるまで、雪のないときは、いつも三味線もって、外まわりしていました。年とったすけに、もう外回りやめてくれろと家のものが、どんげに頼んでも、雪が消えるのを待って、家を出て行ぎました。一度、家を出ると、雪がいっぺい積もるようになるまで、帰って来ないんです。よほど、瞽女さの旅は、いいもんらしかったです。
雪が降って、動けんようになると、沢口の人から言づてが来て、沢口まで迎えにいったんです。迎えは、いつもおらの仕事でした。沢口てや、ご存知ですかい。野地から、峠こえて、鯖石谷へおりた初めの部落ですこて。その雪の中を、おタツさんの瞽女の荷しょって、かんじきかけて、おタツさをつれてくるんでねえ。昔から、重い荷のことを『ごぜの荷のようだ』というように、おタツさの荷の重さといったら、男衆だって、この荷を背負ったら、腰がふらふらしてしまうほどでしょう。この荷をおらが背負って、雪の積もった峠を、かんじきかけ通しで、あがってくるんですねぇ。おタツさは、おらのかんじきのあとを杖んぼで探し、そこへ足をかけるんだろも、目あきの人でも、雪の中は、どぶって(ぬかって)どぶって、やっと歩いているがんに、おタツさんは、あっちころび、こっち転びして、白ねずみみていになって、家の中へころがりこむんです。おらも、あの荷しょって歩くんだろも、汗だくになってしもうて、『もうちっと、早く雪の降らんうちに、帰って来てくんねか』とたんのでいるろも、どっげ瞽女さてや、外、まわるがんが、面白いんでやら、『おれも、お前さんに迷惑がかかるんで、もうちっと早く帰ろうと思うだろも、村の人がおらうちへも来てくれ、むこうの家へも来てくれととめるんだんが、ついつい雪が降るようになってしもうて』とおタツさは、口ぐせみていに言っていました。
おタツさの目がつぶれたのは、何でも、二つの時だったと聞いておりました。親衆は、可愛いくて、可愛いくて、ありとあらゆる医者に診てもらうたろも、だめで、瞽女さんに出したということです。くわしくは聞いていないろも、刈羽ごぜの仲間にはいって、安田の瞽女さんところで修業したとかいっていました。ひとりでまわっていたんでなく、何でも上条のおツガさというごぜさと一緒だったと話していました。まわるとこも、遠くでなく、鯖石谷、鵜川谷ばっかだったというんです。いつも瞽女宿てや、決まってるんだそうですえ。おツガさてや、どっげの人であったんですやら、おらとんと聞いておりません。
あの墓建った年の、昭和九年は、世間じゃ冷害、凶作で、娘の身売りもあったてがんに、おタツさは、瞽女まわりで金ためて、あんげの墓建ったんですと。あの年、おらが嫁に来た年で、おらは二十六でした。おタツさはいうておりました。
『おミチ、なあは、まだ若いし、そんげのこと、思うてみたこそもないろうろも、おらみていの盲は、年とれや、人の世話にならんけやならんし、そのめんどう見てくれるとこてや、この生まれた家のほかにどこがあろうじゃ。年とってからいっそけい(すべて)家の人の世話にならんけやならんすけ、今のうちに、自分のはいる墓ぐれい(くらい)建てようと思うて。旅まわりばっかしてきて、親不孝重ねて来たんだんが、おが出来ることで、ちったぁ親孝行しょうと思うて』
ほうして、あの墓建てて、本床買うてくれましたんです。本床てや、畳のことですがの、それまでは、むしろを敷いていたんです。もうひとつ、じいさん(雄太郎)の子の男一人、女二人に、紋付の着物買うてくれました。
『おが死ぬどき、紋付がないようじゃ、恥かくすけに』
おタツさは、いうておりました。おタツさは、ちゃんと死ぬときの用意までしていたんです。今思うと、偉い人でした。世間じゃ、ごぜんぼだの、めくらだのいうと、ばかにしておりましたが、気持ちのたいらな、いい人でした。
家にはいっても、子守りをしてくれました。顔をなぜて、『でっかくなったなあ』なんていっていました。目が見えなくても、針に糸を通して、針仕事もしていました。目あきのおらなんかより、よっぽど上手に縫っていました。家の中も、きちんとかたづけて、ちゃんと整理ができていて、おらが捜しもんしているときも、すぐ見つけて、出して来てくれるがんは、不思議なくらいでした。
田んぼの忙しいときは、留守番もして、風呂を湧かして、待っていてくれるんです。火だけは、おっかなくて、それだけは焚かんでくんねか、火あまして火事でも出したら、というんだろうも、別に火事になることもない偉いもんでした。
おタツさんが死んでも、瞽女さの道具は、そっくり残っておりました。三味線と、それを入れる袋、べっこうとつげの木と角で出来た三本の撥も、それに笠、桐油合羽と杖が残っていました。おらも、子供が、六人ありまして、戦時中、食べるもん、着るもんに苦労しました。久蔵というおらの舅は、古道具屋でした。その瞽女の道具は、戦争中の物のないとき、売って、子供の着る物買うてもらいました。高く売れて、おタツさのおかげで、どんなに助かりましたことやら。」
ミチさんは、おタツ瞽女のことを一気にしゃべり終ると、しばらく、窓の外を流れる雲の方へ目をやってしばらく無言が続いて
「おが、おタツさについて、知っていることは、それだけです。あのおタツさに比べたら、おらの方が、よっぽどみじめなのかも知れませんて。こんなところへ入れられてしまって。」
ミチさんは、また話し出した。
「おばあちゃんは、どうしてまたこんなところへ来ることになったんですか」
「おら、ちっとも知らんうちに、ここに連れてこられたんです。親類衆や子供が、どっげの相談したんだやら、『ばあちゃん、極楽へ連れていってやるぜ』なんていって。どこへ連れていくんだろうと思うていたら、こんげの施設のとこだった、おらだまされて連れてこられたんです。でも、今は、あきらめていますて。
おらがつれあいの雄太郎は、呆けたみていになって、別の施設に何年も入っておりました。子供は、みんな遠くにいるんだが、おらひとりで、家にいて、せっざいもん(野菜類)家のまわりにつくっていました。すいかも、とうまめ(とうもろこし)もよくできて、よくじいさんのどこへも、持っていぎました。昼間は、近所の婆さん連中が、遊びにきて、お茶やつけものをもちよって、そらあ、はりのある、毎日でしたよ。
でも、一人ぐらしは、夜さるになると、さみしくなりましたね。今は、体が大夫らろも、病気でもしたら、だれがめんどう見てくれるだろうと思いましたね。
上の娘は、千葉へ嫁にいっていて、二ケ月ぐらい、一緒に住みましたかねえ、だろも、この年になって、あんげに、人と建物のごちゃごちゃしたとこへなんか、長く住まれるもんでねえ。そっげのどこへ、小さくなってくらしているんだけや、家にひとりでいるほうが、よっぽどいいと思いましてねぇ、野地の家へもどって来たんです。
去年の正月、施設にはいっていたじいさんが死んで、いよいよひとりなってしもうて。おまけに、そのあと、家の中で、ひょいと立ち上がろうとしたら、急に目の前が、真っ暗になり、まわりのもんが、ぐるぐる回ってみえて、ヒロ婆さんのところへ、電話かけるのがやっとでした。それから、親類衆の世話になって、気づいたときは、病院の白い天井が見えて、びっくりしましたて。
そこを退院してから、またこの老人ホームにつれて来られてしまいました。ここに入っている人のほとんどが、寝たきりか、おしめあててもらっている人で、人の子の顔もわからんような人ですて。
ほれ、そこへ坐っているばあさんなんか、一日中、人形さんぶって、職員から、さじで食物たべさしてもらっていますでしょう。おしめあてて、仏様のような人でしょうの。
おら、この中で腰は、まがっているだけでどこも、なんにもない、毎日、あんげな人たちのおしめたたんでやるのが仕事ですて。この前、親類の人が来て、この仕事を見ながら、『ボケ防止に、ちょうどいい仕事らねか』なんて、いうてけつかる(いいやがる)。だれでも好きでしている仕事でねぇ。ほうして、職員には、一週間に一度の休みがあるというがんに、おらのような入所者には、一回の休みというもんがないんですぜ。おタツ瞽女さは、めくらでも、ちゃんと、生まれた家で、みんなから看とってもらえたてのに、おら死ぬときは、どうなるんでしょうのう。こんげの、家から離れた、施設の部屋で、見ず知らずの人の中で、息ひきとるなんて、考えただけで、さびしいもんです。
ここだって、まだできて二年目しかならねぇろうも、何人も死んでいきました。でも、連絡しても、だれも身よりの人が来ねいこともあります。まるで、姥捨て山みていなもんだといいあっています。やっぱり、話し相手がいねえというんが、いやですね。お前さんは、どういう人か知らんですが、久しぶりに、心の中のものをはき出したような気持ちになりました。」
おミチさんは、おタツさの話よりも、自分の置かれた今の境遇を話すのに熱がはいった。わたしも、おタツさんのことも忘れて、しばらく、おミチさんの身の上ばなしに何回かうなづいた。おタツさの話なんか、どうでもよいような気持ちになった。故郷から遠く離れた、こんな施設に、自らに意志と無関係に入れられたことへのうっ積した不満をおミチさんは一度に吐き出すように感じられた。おミチさんのことだけでない、家を持っている人だって、家の畳の上で、みんなから見とられて息をひきとるわけではない。病院で、鼻から管を入れられ、人工呼吸器をつけられ、うでには、点滴の管をさしこまれながら、機具にかこまれて死んでいく人が多いのではあるまいか。このわたしだって、おミチさんの願うような死にかたが出来るかどうか。
午後四時半、このホームの入所者は、五時からの夕食のために、みんな食堂に集まりつつあった。五時の夕食のあと、翌朝七時半の朝食、すべてこの施設の職員の勤務の都合のためであった。病院も施設も、入っている人よりも、まず働いている人の都合が第一にされる。わたしは、おミチさんに、お礼をいって施設をあとにした。車にのりこもうと、ひょいと玄関を見ると、まだおミチさんは、立ったままで、私の車を見送ってくれた。
おタツ瞽女は、結婚しなかったから、もちろん、子があるわけがない。久蔵の妹にあたり、おタツさの姪のサト婆さんが、まだ元気でいるはずだときいて、私は、すぐ出かけた。サトさは、わたしのすぐ隣りの部落に住んでいたのだ。さっそく訪ねていった。八十九歳という。
「おタツさは、知っています。墓もあるのですが、そうですか、墓におタツさの名が刻んであるなんて知りませんでした。おタツさは気持ちのやさしい、いい瞽女さでした。おら「あば」とよんでいました。おらは、唄を聞いたことがなかったですども、唄が上手だと、評判がよくて、あっち、こっちとめでたい席によばれていました。「松前」とか「松坂」とか、おタツさのおはこの唄でした。おらとは三十も年がはなれていましたがの。おタツさからつむぎ縞に羽織一枚もらいました。あのころ、おら家は、貧乏だったもんだすけ、親からなんか着物買ってもらえなかったし、うれしかったですね。それに、あの瞽女さの三味線入れておく、袋、あれは、三十三人からもらったきれを、あわせてつくると、人の命を助けるといわれていまして、よその家へきれをもらいに歩んだんですよ。雄太郎の上の三人の子が、早死にでしてね。どうしても雄太郎だけは、早死にさせたくないといって、真剣にきれをもらいに歩いたんですよ。そのおかげで雄太郎は助かったがです。何しろ、瞽女さの集めた米でご飯炊くと、長生きしるなんて、いわれていましてね。瞽女さは、大事にされたんです。
おタツさの回る宿は、どこへいってもきまっていましてね。宿へよると、どこの家の人も喜んで、泊めてくれるんだそうですよ。おタツさと一緒の瞽女さ、おツガさは、野地へ何回が来たことがあります。体格のいい人でねぇ。もう一人、沢口の奥へ入った、高山の瞽女さも仲間で、三人で回っていたそうですよ。手引きは、いたんでしょうども、聞いていません。
おらは、二十二の年に、野地からおりて、貝田というどこへ、嫁にきたんですよ。ええ、久蔵は、おらの兄ですがね、母親が違うんですよ。年も離れていましたし、まるで父親みてぃでしたよ。いばっていましてね。貝田へ嫁ぐときでも、お前貝田へ行けというて、一言も、こちらへ相談もなしですよ。古道具屋をやっていましてね。掛軸や、膳椀の類が家の中で、山のようになっていましたよ。
おらは、一番末っ子のもんで、他の人みてぃに、工場に糸引きに出してくれんし、若い時から、百姓仕事は、なんでもさせられましたよ。馬を飼っていて、その草刈り、蚕をいっぺい飼っていたすけ、桑の木を切っちゃ、家まで背負ってきたり、ぼよ切り、田打ち、あぜ塗り、男衆と同じことをさせられました。そのおかげで、嫁に来ても、舅つとめが出来たのかも知れませんて。久蔵は、おっかなかったですよ。でも、おタツさには、頭があがらんかったようですよ。墓を建ってくれたり、羽織つくってくれたりしたことなんか、ちっとも教えてくれませんでしたがね。やっぱり、そんげのこと、しょうしくて(恥しく)いわんねかったんでねえですか。瞽女さんから、銭出してもらったなんて。時々、おら実家へ帰ると、久蔵は家中のタンスの抽出しを、みんな壁に向けておくんです。中のものを、おらがとってゆくのが心配だったんだそうですよ。まるで、家から外へ嫁に出たものを、泥棒扱いなんですから。おタツさが死んで、おタツさの道具なんか、自分で勝手に処分したんでしょう。おら、そんげの相談なんか、ちっともありませんでしたね。それどころか、自分の娘、嫁にやるどき、出立ちにも招んでくれんでのです。下の娘なんか、おらの嫁いだ貝田の隣の村へいったんですよ。おらの村通って、嫁にゆくていうのに、おらには知らせてくれないし、しょうしい(恥しい)たってありはしない、人がみんな嫁見に外へ出てゆくのに、おらばっか出らんねえ。久蔵という人は、そんげの人でしたよ。やっぱり、腹ちがいの兄妹というのは、情が薄いんでしょうかねぇ。おらも、すぐ上の兄も、あんまし実家へ行けんようになりましてね。実の兄は、満州へいって、いい暮ししていたのも、あの終戦のごたごたで、ひどい目にあって、内地へ引きあげてきたあと、その栄養失調がもとで死んだんですよ。気持ちのいい、優しい兄でしたろも気の毒でした。
それにしても、おミチさも気の毒な人ですよ。病人の世話を、どれくらいしたもんだやら、ずいぶん人の世話をしたんですよ。こんだ人から面倒見てもらうというときになって、子供は、みんな遠くへいっている、亭主には先だたれる。あんな老人ホームに入れられるなんて、人の世は、思うようにならんもんですね。姉妹の嫁ぎ先の千葉へいったのに、帰ってきてしまって、聟さんのと間が、うまくいかなかったということですよ。でも、ミチさんは、気丈な人ですよ。そんな愚痴一つこぼさんのですから。
瞽女さんなんて、世間じゃ、いやしい職業というて、瞽女の行列に、子供が石ぶつけたり、するんですども、そんげのもんじゃないでしたよ。「おらちのごぜさん」というて、どこの家でも、瞽女さの来るのを待っていてくれたそうですよ。普通の目あきでも、年とっていけば、『あのごうつく(欲張り)婆、はやくくたばってくれれやいい』なんて、嫁にかげ口の一つもたたかれるのに。亭主も子もいなけりゃ、身一つで、ほいほいと好きなところへいかれるし、見ず知らずの人から、瞽女さの唄ききたいと情けをかけてもらえる。昔から芸は身を助くって、よくいったもんですね。目が見えなくても、普通の人より、ずっとずっと幸せな一生送れるんですから。
何が人には幸せなもんだやら、ほんにわかりませんこて」
(63・7・24)

たかはしみのる・一九四〇年生れ。県立柏崎養護学校教諭。「北方文学」同人 著書に小説集「雪残る村」「紙の匂い」などがある。小国町上岩田在住。


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