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初心者にも分かり易く著者の論文中で最もコンパクトに越後瞽女全般の生態がまとめられています。

越後瞽女report


「越後瞽女」 鈴木 昭英

越後(えちご)の瞽女(ごぜ)集団

 三味線(しゃみせん)を携えて農山村を遊歴し、語り物や俗曲、はやり唄、民謡などを歌い歩いた盲目の女性旅芸人、"瞽女"。そうした瞽女仲間の組織は、昔は日本の各地に見られたが、今その遺風をとどめるのは越後だけである。
 明治中頃が越後瞽女の最盛期であったが、集団の数も多く、瞽女の総員数も膨大にふくれ、広く遠隔の地まで旅興行する実跡を示した。雪国であること、貧困な小作農民が多いことと関連して、出稼ぎの風が盛んであったが、ねばりけのある越後人特有の気質も手伝って、越後瞽女の活動にはめざましいものがあった。
 瞽女の出身地は農山村が主体であるが、瞽女となった後の居住地は、従来通り出身地にとどまる組と、その地方中心の都市に移住する組とがある。私は前者を村里型集団、後者を都市型集団と呼んでいる。村里型には、上越地方に中頸城(なかくびき)の土底(どそこ)組や西野島組、東頸城の田麦組があり、中越地方の長岡組、刈羽(かりわ)組、三条組、下越地方の新飯田(にいだ)組などもこれであった。都市型としては上越の高田組、糸魚川(いといがわ)組が挙げられる。
 では、両者の形式から、伝統のある高田瞽女と長岡瞽女の実態をいささか詳しく紹介したい。人数も多く、組織も強固で、広範な活動を行なった点で越後瞽女集団の双壁であった。
 高田瞽女は、寛永元年(一六二四)藩主松平光長(まつだいらみつなが)が越前(えちぜん)北の庄(福井)から高田に移封のとき、川口御坊が高田瞽女を取り締まったといい、文化十一年(一八一四)には五十七人、明治三十四年には八十九人を数えたが、大正十一年は四十四人、昭和八年には二十三人となり、戦後は杉本キクエさんを親方とする三人家族の家一軒だけとなった。
 高田瞽女にあっては、親方が高田の町に自分の家を構えている。そして周辺農山村から弟子を受け入れ、養育しながら芸を仕込み、その中から家督(かとく)相続者を出した。そして親方の家が何軒か寄って組を作り、その組が幾つか寄って仲間全体の座を結成し、親方の中で瞽女就業最年長者が座元になり、一派を取り仕切った。従って、この組の管理方式は座元制であったといえる。
 長岡瞽女は、長岡の町に山本ゴイを代々襲名する瞽女頭が大きな邸宅(瞽女屋)を構えて住み、中越に散在する長岡瞽女を支配した。
 山本ゴイの元祖は長岡藩主牧野家に縁故のある人で、生来盲目のため宰臣山本家へ養女に遣わされ、元禄の末長岡の柳原町へ分家に出た。享保十年(一七二五)から古志(こし)・三島(さんとう)・刈羽・魚沼(うおぬま)・頸城五郡内の牧野家本領、預領の瞽女頭となったが、享保十三年長岡の大火の火元であったことから町払いを命じられ、大工町地続き赤川村に邸宅を再建したという。その後の代々の山本ゴイは、長岡系の多数の瞽女の中から、全盲で、品行端正の老齢者が選ばれた。そしで山本家は牧野家から二百八十五坪の土地を与えられ、扶持(ふち)米を給せられていたとも伝える。
 中越地方一円に数多くの師弟集団の組があった。師匠は大体生家に住んでいて、弟子瞽女を養成した。もらいきりの弟子もいるが、稽古(けいこ)の期間だけ住み込む場合もあり、通い弟子もある。師匠が弟子の家に行って教えることもある。そして、その弟子が一人前になり、師匠となるときは自分の生家で旗を揚げるのが一般である。このようにして、地方には多くの師弟集団の組が生まれていたが、瞽女屋は芸を教える場所でもあったから山本ゴイの弟子も多く、地方にはゴイ直系の師弟集団もあった。いずれにしろ、瞽女頭が地方の瞽女集団を統轄したから、その管理方式は家元制であり、それは高田の座元をしのぐ実権をもっていたとみられる。
 最盛期の明治中頃、長岡瞽女の総数は四百数十人に達したという。明治三十一年には、この膨張した大集団を無難に統率し、末端瞽女の風紀を取り締まるため「中越瞽女矯風会」を組織した。古志郡長岡大工町の瞽女屋を本会事務所として、そこに会頭(山本ゴイ)・副会頭・助役・事務員を置き、中越八郡に支会事務所を設けて副会頭・事務員各一名ずつ置いた。従来の師弟集団の枠を超えて、郡単位の地域的統治体制を敷いたもので、長岡瞽女の面目躍如(やくじょ)たるものがある。
 明治末期以降、越後瞽女は衰退の道をたどったが、長岡瞽女は第二次大戦当時七、八十人となり、昭和二十年八月の空襲で瞽女屋は焼失し、地方在住の瞽女は四散した。そして昭和三十九年に最後の山本ゴイが死亡し、瞽女支配所としての地位を失ったが、長岡瞽女の岩田組に属していた三島郡越路町の中静ミサオさん、金子セキさんと手引きの三人が今もなお中越地方を巡業している。門付(かどづ)け瞽女の遺風をとどめる本邦最後の人たちである。
 次に、高田瞽女や長岡瞽女以外についても参考のため少し述べておく。
 都市型の糸魚川瞽女は、糸魚川の浜町に瞽女の家が二軒あって、一軒は五人、もう一軒は二人住んでいたことが確認されたが、組織の詳細はわからない。瞽女の出身地は西頸城の農山村であった。
 村里型の刈羽組は、刈羽一郡を中心に八つの組で七十五人、三条組は三条の周辺農村部にある四つの師弟集団に十六人、新飯田組は現在の白根(しろね)市の農村部を中心に六つの師弟集団で三十九人の瞽女が確認された。
 これらの組は、瞽女の居住形態や弟子入りの方式が長岡組と類似しているものの、中心となる特定の頭や瞽女屋敷をもたないから、組織はそれほど強固になりえなかった。しかし、刈羽組や三条組は親方衆の中で瞽女経験最年長者がおのずから頭としての言動をしていたというから、高田の座元制に近いものであった。それに対し、新飯田瞽女は、瞽女の守り本尊を祭る妙音講(みょうおんこう)の当番を師匠とその弟子が毎年交代して勤めるもので、頭屋制に類似する機構であったといえる。
 なお、現在埼玉県に住み、高田の杉本さんと共に、無形文化財に選定され、黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受章された伊平タケさんは、この刈羽組の出身であった。

厳しい年期修業

 瞽女の弟子入り修業は年期制で、年期奉公が終わらなければ一人前の瞽女として認められないし、師匠にもなれない。その年期の期間はいたって長く、長岡瞽女、刈羽瞽女は二十一年、新飯田瞽女は十八年、高田瞽女、三条瞽女はほぼ十年ほどであった。
 年期修業中の瞽女は、上等の絹の着物を着てはならぬとか、化粧してはならぬとか、いろいろの制約が加えられる。瞽女社会は年功序列で、商売から普段の生活に至るまで全てが入門順によって律せられる。弟子は師匠に、妹弟子は姉弟子に奉公服従を強いられる。艱難(かんなん)辛苦を伴う芸の習得に加えて、そうした仲間の秩序・規則を守ることが大変であった。
 仲間の堅い掟を破り、不正の所業を働くと制裁が加えられる。毎年妙音講の席で朗読される「瞽女式目(しきもく)」(「御条目(ごじょうもく)」)にも、その戒めが書いてある。作法に背く者があれば髪を切り、竹の杖を預け、科(とが)の品により所を追い、あるいは十里、二十里外へ流罪にする。不行式あれば、その罪名を裁いて五年・七年.十年と年(ねん)を落とす、等々。掟の違反者には罰金を科し体罰に処することもあるが、年功序列を重んじる社会だから年落としの刑が有効な手段としてよく用いられた。
 現実に行なわれた懲罰は、組により時代により差があるが、長岡組の処罰が最も厳しかった。一番重い罪は男子禁制の掟を破ることだが、明治時代の長岡組では、巡業中に男と密通したことが発覚すると、妙音講の席で報告がなされ、その罪状が一同に披露されて年落としにされる。名前を替えて、入門初年度に振り戻した。旅に同行した姉妹弟子も連座して、幾年かの年数を削られた。瞽女屋山本ゴイの名を汚したとしての処置であった。その当時、三年に一度くらいこうした年落としの処罰があったという。高田組や刈羽組でも年落としは行なわれたが、丸々初年度に戻すということはなかったらしい。
 仲間の規則、制裁が厳しいから、これに違反して仲間から外されたり、自ら組織外に去る瞽女もある。仲間を離脱しても依然として瞽女稼業を続ける者があり、これを「外(はず)れ瞽女」と言った。中には、長岡組から外れた四郎丸組のように、師匠が外れた後多くの弟子瞽女をとり、また目明きの子を受け入れて芸者の踊りを習わせ、唄に踊りを交えて興行した特殊なグループもある。
 年期が終わると年明き振る舞いが当人瞽女の生家で行なわれる。師匠や姉妹弟子、仲間の瞽女、親類の人を呼んで、馳走して盛大に振る舞い、芸の上達ぶりを披露した。本人は島田を結い、振袖を着て、花嫁姿で列席するところがあり、この儀を「瞽女の祝言(しゅうげん)」と言っていた。これが済めば髪を丸まげとし、お歯黒をつけ、上等の着物を着て親方として独立できた。ただし、高田瞽女は入門七年目で名替えして本格的芸名の出世名をもらい、そこで祝言の振る舞いをしたが、年期の明けるのはその三年後、弟子をとれるのはさらにその三年後という。

巡業と歌謡

 酒宴や寄り合いの席に呼ばれ、余興に唄を歌った瞽女を「座敷(ざしき)瞽女」というが、これはわずかで、その大多数は門付け巡回を稼業とする「門付け瞽女」であった。門付け瞽女は目明きの手引きに先導され、三人、五人と列をなして村々町々を渡り歩き、昼は民家の戸口戸口に立って唄を歌い、米銭を乞い、夜は泊まり宿で近所の人たちを相手に好みの唄を披露し、その代償を求める。
 瞽女の巡業地は、組により師匠により、昔から開拓されてきた独自の稼ぎ場があった。瞽女を泊める宿は、数代、前の先祖師匠からの、数十年来の縁故をもつ瞽女宿が多かった。
 今日の聞き取りから越後瞽女の巡業の行動範囲をみると、県内では上越の瞽女は上越地方を、中・下越の瞽女は中・下越地方を巡り、互いに他域を訪れない。米山(よねやま)山系が交流を遮断(しゃだん)していたためだが、東頸城の松代(まつだい)、松之山方面が上・中越瞽女共同の稼ぎ場であった。県外をみると、さすが長岡瞽女の活動は広範囲で、甲信の一部から関東一円、東北の福島、山形、秋田、宮城まで及ぶ。刈羽瞽女は北関東から福島、山形、宮城へ、新飯田瞽女は山形へ訪れた。上越の高田瞽女は信州、上州へ、糸魚川瞽女は信州へ入った。近代にこれだけ行動範囲を伸ばした瞽女集団は、他県に例をみないであろう。
 これら県外巡業地で特に越後瞽女を迎え入れたのは群馬、埼玉、栃木の北関東農村部で、ここは夏、冬両度の旅ができて収入が大いに上がった。また米沢(よねざわ)地方も、夏旅しかできないが中・下越地方の瞽女がよく訪れた。いずれも語り物の芸能を好んだ土地だが、また養蚕(ようさん)業が盛んなところで、蚕繭(さんけん)の増産を瞽女に期待する信仰が深かったため、これをよく迎え入れたのであった。
 瞽女が商売にひっさげる唄のレパートリーはいたって広く、曲目も数が多い。その瞽女唄の中で、中世以来の伝統をもつのは段物(だんもの)(祭文松坂(さいもんまつざか))と口説(くどき)である。
 段物は長篇の物語を段に区切って歌うのでその名があるが、その内容は五説経に数えられる「葛の葉(くずのは)」「「小栗判官(おぐりはんがん)」「山椒太夫(さんしょうだゆう)」「俊徳丸(しゅんとくまる)」「石童丸(いしどうまる)」のような説経系の語り物と「平井権八(ひらいごんぱち)」や「佐倉宗五郎(さくらそうごろう)」のような祭文系の語り物がある。口説は段物をくずしたもので、心中(しんじゅう)物、情事物、滑稽(こっけい)物、風刺物、唱導物などを扱う、段物は七五の文句を数句で一節とし、それの繰り返しで、三味線は三下がり、口説は七七調の詞句で二句ごとに間奏が入り、三味線は二上がり。哀調おびた語り口、曲調が瞽女唄の特色である。
 そのほか、義太夫(ぎだゆう)、長唄、端唄(はうた)、常磐津(ときわづ)、清元(きよもと)、新内(しんない)、各種のはやり唄、民謡、万歳(まんざい)、門付け唄などがある。お客に所望(しょもう)されて、歌われないとすれば恥であるから、極力覚える努力をした。
 門付けの唄は、組による独自の創作と伝承があるが、地域住民の嗜好(しこう)も顕著に反映している。長岡瞽女が中越を門付けするときは、男女相愛の情を譬喩(ひゆ)的につづった七七七五の詞章を岩室甚句(じんく)くずしに歌うが、刈羽瞽女が刈羽地方を巡るときはこれを松坂節で歌う。どこの組の瞽女が訪れても、蒲原(かんばら)や米沢地方の門付けの唄は段物、上州方面は口説を歌うのが通り相場であった。

瞽女の民間信仰

 庶民は瞽女に対して、娯楽、鑑賞の対象としての唄を歌う旅芸人としただけでなく、異常に霊力のあるものと認め、その利益(りやく)にあずかろうとした。安産信仰、子育て信仰、治病信仰、生業増産信仰がその代表的なものであった。
 安産のため、妊婦は瞽女の使い古した三味線糸を薬にして飲んだ。腰に結びつけてお守りにもした。病弱で育てにくい子を丈夫に育てる子育て信仰として、瞽女の使用した三味線袋を子供の着物に作り直して着せた。
 治病信仰では、長患(わずら)いで寝込んでいるとか風邪をひいたときなどは唄がよいとされ、また瞽女のもらい集めた米を煮て食べたり、瞽女の着物をもらって着たり、三味線糸をほぐしで織り込んだ着物を着たりした。内臓の病のときは三味線糸を薬にして飲み、手足の痛いところには糸で縛る。杖の先で足や腰、腹などの痛いところ、また陰嚢(いんのう)ヘルニアや出べそのような異常なところを突いたりなでたりした。
 生業に関する信仰では、養蚕信仰が最も喧伝(けんでん)された。冬旅で関東に行くと、養蚕農民が蚕(かいこ)の種紙を差し出してそれに歌ってくれという。そんなとき瞽女はめでたい"お棚口説"を歌うのであった。夏の養蚕期に訪れると、蚕室へ導いて蚕棚の下で歌わせる。蚕は三味線の音が大好きで、その音を聞くと桑の食い方が盛んになり、丈夫に育ち、よい糸を出し収穫が上がるとする。三味線糸を蚕棚や蚕籠に縛ったり、揆(ばち)を蚕棚に結びつけて増産のおまじないとする風もみられた。
 長岡瞽女屋の妙音講に集まった瞽女たちは、瞽女小路の露店で白木の箸(はし)を買い、本尊弁天に供え、お経や唄に合わせた後、旅に携えて養蚕農家に配る。この箸で蚕児を処理すれば蚕は丈夫に育つといわれて、珍重された。
 越後のような米どころでは、秋の稲刈り時分や春の種まきころ、スジ(種籾(もみ)を箕(みの)や箱の中に入れて差し出し、これに歌ってくれという農民があった。瞽女はそのようなとき"宝臼"という一言文句のめでたい唄を歌うのであった。綿産地では綿の種に、関東のような麦産地では麦の種に歌ってくれという農民があったという。
 以上に掲げた瞽女に対する民間信仰を要約すれば、人間の生命の誕生と安全・保護に関する信仰、生産業にかかわる動植物の艀化(ふか)・発芽とその育成に関する信仰の二つとなる。
 期待される瞽女についていえば、三味線のかなでる旋律的な音、口からほとばしり出る唄声、旅で使用した三味線の糸、揆、袋、瞽女が身につける着物、履物、所持する杖、唄の報酬にもらい歩いた米、瞽女の守り本尊など、そうしたものの全てにわたって呪力(じゅりょく)を認めたのであり、そのため、民衆は瞽女を聖なる来訪者と意識し、これを手厚くもてなし、昼宿、泊まり宿を提供した。そのような地方、そうした人たちにとって瞽女を賤視する意識は極めて希薄であった。
 今日調査しうる芸能人瞽女の生態にはなお、神が子孫祝福のために来訪する祝言宗教者の遺影が色濃くうかがわれる。瞽女の年明きのヒロメの祝言はおそらくシャマンの神婚儀礼の遺風であり、禁男の掟も男を近づけぬ神の妻の思想から出発していると思われる。盲目は霊界に通じ、神に直接する大事な要件であったとみられる。
『民話と伝説5 甲信越・飛騨』より P.186-189(この稿は著者による加筆訂正があります。)

書名/民話と伝説5 甲信越・飛騨
副書名/グラフィック版 民話と伝説
巻号/第5巻
巻の書名/甲信越・飛騨
編著者/鈴木泰二
出版者/学習研究社
出版年/1976

※なお、転載にあたっては、現「学研ホールディングス」様から許可を得ております。



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