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「瞽女唄の夕べ」(新潟市、新発田市)で小林ハル師と竹下玲子共演

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竹下玲子と小林ハルとの共演

「瞽女唄の夕べ」(新潟市、新発田市)で小林ハル師と竹下玲子共演

 昭和55年4月に、新潟市公会堂と新発田市文化会館において「瞽女唄の夕べ」が開催されたが、この一次資料や企画の詳細は全く不明である。今後調査を進めたい。
 ここでは、稿の性格から簡略なものになってはいるが、NHKラジオ新潟放送局の長寿番組「朝の随想」で語られた原稿の一部を引用したい。昭和55年に至るまでの瞽女唄についてのトピックスが良くまとまっている。ラジオで語ったのは、瞽女唄ネットワーク事務局長の高橋実である。

「瞽女というという言葉を知っている人も少なくなりました。瞽女というのは、眼の不自由な女性の旅芸人を指します。瞽女の歴史は古く、室町時代に遡るといわれています。嘗ては全国どこにでもいましたが、最後まで残ったのは越後でした。越後瞽女は長岡瞽女と高田瞽女という二つの瞽女集団があり、長岡藩主牧野侯の息女、照姫は眼が不自由でしたので、山本家へ養女に出されたと伝えています。以来、長岡瞽女は代々山本ゴイを襲名し、明治年間は、四百人を擁する大集団になっていました。第二次大戦で瞽女の転廃業があり、加えて昭和二十年八月の長岡空襲により、瞽女屋が消失し、昭和三十九年最後の山本ゴイがなくなって、長岡の瞽女集団は崩壊しました。長岡瞽女集団は消滅しても、瞽女はそれぞれの小集団をつくって昭和五十二年まで活動していました。最後まで旅を続けたのは旧越路町の中静ミサオさん、金子セキさん、手引きの関谷ハナさんと言った人たちでした。そして瞽女の最後の姿を写真家、画家がその姿を追いかけ、瞽女ブームともいえる現象が起こりました。大きな荷物を背負って連れだって歩く姿を知っている人も多いはずです。
 昭和五十二年を最後に瞽女の旅姿を見ることはできなくなりました。瞽女が年とって旅に出られなくなり、旧黒川村にできた盲養護老人ホーム胎内やすらぎの家に入居することになったのです。
 その頃、小林ハルさんが瞽女唄伝承者として無形文化財に指定されたのです。瞽女唄が国の無形文化財に指定されたのは、高田の杉本キクイさん、刈羽の伊平タケさんについで三人目です。瞽女唄が文化財になるまでに、高田の市川信次さん、新発田の佐久間惇一さんといった方の力がありました。小林ハルさんの唄にひかれて東京でオペラ歌手を目指していた竹下玲子さんが新潟に通って小林ハルさんについて瞽女唄を習い始めました。昭和五十五年四月、新潟市公会堂と新発田市文化会館において「瞽女唄の夕べ」が開かれ、この時、竹下玲子さんは初めて小林ハルさんの弟子として師匠と一緒に舞台に上がったのです。」
『随筆集 雪の山里に住み継ぐ』「第三章 越後の文化 1、瞽女の旅」より一部引用

随筆集 雪の山里に住み継ぐ』(『高橋実の本棚』の該当ページにリンクしています。)
高橋 実/著
雑草出版
長岡
2011年
953円

 ちなみに、ページトップで使用している写真は、この新発田市文化会館での「瞽女唄の夕べ」で撮影されたものです。

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